はいさい!
てぃーだ石垣島の伊波です。
今回は、石垣島出身の有名人についてのお話第1弾です。
その第1弾にふさわしい人物は、この人。具志堅用高さんです。言わずと知れた石垣島を代表する方で、石垣島を訪れた人なら必ずと言っていいほど、ここで写真を撮るのではないでしょうか。
そんな具志堅用高さんはどんな人なのかみていきたいと思います。
具志堅用高さんは、1955年(昭和30年)に沖縄県石垣島で産まれました。石垣小学校、石垣中学校を卒業。地元での高校受験に失敗し、沖縄本島に渡り、興南高校へと入学しました。興南高校では、野球部に入部したかったようですが、身長が足りないことで入部を断られたとか。そこで、下宿代が無料になるという理由でボクシング部に入部したそうです。そんな具志堅用高さんは、 高校3年生のときには、全国高等学校総合体育大会(インターハイ)のモスキート級で優勝、国民体育大会(国体)でも優勝しました。
のちに具志堅用高さんは「体が小さく、いじめられっ子だった僕がチャンピオンになるなんて、本当にうれしかったな。島の高校に落ちた時は本当にショックだったけど、神様が僕とボクシングを出合わせてくれたんだなと思う。石垣の高校に行っていたら、今頃うみんちゅ(漁師)をしているだろうね」と語っています。
高校を卒業後は、上京してプロ入り。1974年に協栄ジムでプロデビューをしました。言葉や文化など、沖縄の人の誇りとするものが否定され、沖縄出身者に対する直接的な差別が残っていた時代。「当時、沖縄と本土にははっきりした線が引かれていた。だから僕は、この線を消すためにチャンピオンになって頑張ったのよ」と語っています。挑戦者を次々倒し、勝利後のヒーローインタビューでは島くとぅば(沖縄の言葉)で素朴に受け答えした。その姿は、沖縄の人たちが本土に抱かされていたコンプレックスを一つずつ取り除いていったそうです。
「勝つたびに先輩が『胸を張って沖縄出身と言える』と喜んでくれてね。だからずっと沖縄代表のつもりで、僕の負けは沖縄の負けだと考えて。もし負けたら、あれだけ喜んでくれた沖縄の人たちに申し訳ない、悲しませたくないという気持ちでね」。背負うものが大きかったからこそ、厳しい練習を乗り越えられたと本人は言います。
1976年には、当時の日本記録である、プロ9戦目での世界王座獲得(WBA世界ライトフライ級)を成し遂げました。その後は、6連続KO・13連続防衛を達成。(共に2015年6月現在日本記録)12連続防衛は当時の世界記録でもありました。
1981年に14回目の防衛戦で敗れ、現役引退。2015年6月14日、国際ボクシング殿堂入りを果たしました。「120パーセント、沖縄のために戦った」との言葉に一切の誇張はない。それゆえ、沖縄の若い人たちには並々ならぬ期待を寄せている。「一番大切なのは勇気、どんな困難にも立ち向かっていく勇気ね。沖縄の力を世界に示すために、みんなカンムリワシのように羽ばたいてほしいよね」と具志堅用高さんは語っています。
沖縄が返還され、今の私たちには想像もできないような「沖縄」という偏見と戦ってくれた具志堅用高さんは、まさに沖縄の期待の星であったことに間違いありません。今でこそバライティー番組組で盛り上げてくれる具志堅用高さんですが、過去に遡ると偉大な石垣島市民だということがわかりました。
沖縄県民は、具志堅用高さんが勝つごとに勇気と希望をもらっていたということです。具志堅用高さんの功績を後世に伝えていくのが沖縄の歴史には欠かせないですね。
石垣島には、具志堅用高さんのご親族が営んでいる具志堅用高記念館があります。石垣島を訪れた際にはぜひ行ってみてはいかがでしょうか。
~具志堅用高記念館~
住所:〒907-0024 沖縄県石垣市新川2376-1
営業時間:9時~18時
定休日:年中無休